風林火山(NHK大河ドラマ2007)で行こう!

NHK大河ドラマ風林火山で描かれる山本勘助について。

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NHK大河ドラマ風林火山で描かれる山本勘助について。

山本 勘助(菅助)(やまもと かんすけ、明応2年(1493年)? - 永禄4年9月10日(1561年10月18日)?)は、戦国時代の武将。諱を晴幸、出家後道鬼斎を称したというが、信憑性はない。勘介とも書く。武田二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。武田信玄の伝説的軍師として講談などで有名であるが、近年の研究によると実際は武田軍の伝令将校とされている。生没年は、『甲陽軍鑑』によると1493年~1561年という。生年は1500年説、1501年説もある。

2007年NHK大河ドラマ風林火山の主人公の設定については「近年の主な作品の山本勘助」を参照。

なお、当て推量なことを「山勘」「ヤマカン」と言うが、山本勘助を略したという説(大言海、辞海)と「山師の勘」(三省堂国語辞典)の二つの説がある。

生涯・出自

以下は、江戸時代前期成立の『甲陽軍鑑』を元にした山本勘助の生涯だが、事件の年次や事実関係などが史実と大きく異なり、現在のところ『甲陽軍鑑』の史料性は否定的ないし、極めて低いものと考えられている。山本勘助の名および活動は(戦後に発見された後述の市川文書を除き)『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見えず、ここで記述した山本勘助の生涯の全てが『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であるとされている。各地に残る家伝や伝承は江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった山本勘助にちなんだ後世の付会である可能性が高く、武蔵坊弁慶のそれと同様の英雄伝承に類するものと考えるのが主流である。

現在のところ実在の山本勘助については市川文書に現れた山本菅助と同一人物である可能性がある以外は何も分かっていない。そして、その山本菅助については弘治3年(1557年)に武田晴信の使者を務めた以外の経歴および出自は一切不明である。

生誕地(出身地)

1次史料の甲陽軍鑑他では、牛窪(豊川市牛久保)出身となっている。

甲陽軍鑑』によれば、山本勘助は三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出である。

山本勘助、三河の国牛窪より今川殿へ奉公の望にて参るといえども」「このものハ三河うしくぼ侍」「山本勘助入道道鬼斎ハ、本国三河牛窪の者也。」などとある。

『三河堤』(豊橋市吉田本町の医者本間長玄らによって寛政2年(1790年)頃に著された三河一国の地誌)では、牛久保出生という。

小和田哲男・静岡大教育学部教授(日本史)らによる信憑性が高いとされる駿河国富士郡山本郷(富士宮市)出身説。

2次史料になる『甲斐国誌』(甲府勤番支配の松平定能著・1814年成立)によれば、山本勘助は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)の吉野貞幸と安女の三男に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入ったとある。甲斐国志の完成本は幕府献進本として江戸幕府に納められた。

異説(第3の説;あまり有力ではない)

牛窪の住人の中神善九郎行忠の著書;牛窪密談記に始まる山本勘助;三河国八名郡賀茂郷(豊橋市)出身説

甲陽軍鑑』成立以後の資料によると『牛窪密談記』(豊川市牛久保の住人中神善九郎行忠著・1701年元禄14年成立)や『三河国二葉松』(豊川市下長山の住職の佐野知堯著・1740年成立、下長山は牛窪の隣)、『参河志』(西尾市の神官・渡辺政香著・1836年成立)によれば駿河の富士郡に本拠を構える山本氏(山本勘助の先祖)が三河国八名郡賀茂荘(愛知県豊橋市賀茂町)へ移住し、賀茂荘に山本屋敷を構え、その後、明応9年8月15日(1500年9月8日)に山本光幸の三男として山本勘助晴幸が賀茂の地で誕生したと言う説である。この説でも三河国宝飯郡牛窪(豊川市牛久保町)の牛窪城主牧野氏を頼る。大正4年(1915年)に豊橋市賀茂町(八名郡賀茂村)に「山本晴幸生誕地」の石碑が建てられた。

生誕地を巡る論争; 山本勘助に詳しい小和田哲男・静岡大教育学部教授(日本史)によると、残存する文献の質から見て富士宮の信ぴょう性が高いが、賀茂や豊川などの説があるのも確か。生誕地については、研究者の間に富士宮や賀茂のほか、同県豊川市など諸説がある。NHK大河ドラマ風林火山で、富士宮市を生誕地としたため、山本勘助生誕地を名乗る愛知県豊橋市賀茂小学校区の住民が反発して、NHK豊橋支局に押し掛けたという。その結果、NHKウェブサイトのNHK大河ドラマ風林火山コーナーに、その旨を説明する記事が掲載され、本編放映後の風林火山紀行で、豊橋市賀茂が紹介されることになった。豊橋市民の抗議により、番組内容に改変が加えられるのは異例のことであろう。彼らの主張は、諸説に触れないのはおかしいというものであり、NHK側のあくまでドラマの設定だからという説明に納得がいかず、街おこしの観光も含めて気勢を上げたものと思われる。

牢人

※「牢人」は「浪人」と同じ意味。江戸時代以前に主に使われていた。山本勘助の原典史料である『甲陽軍鑑』ではこちらが使われており、本項目でもこれを用いる。

山本勘助は26歳(または20歳)のときに武者修行の旅に出た。『武功雑記』によれば、剣豪上泉秀綱が弟子の虎伯と牛窪の牧野氏を訪ねたときに、若き山本勘助と虎伯が立会い、まず虎伯が一本取り、続いて山本勘助が一本を取った。しかし、山本勘助を妬む者たちが山本勘助が負けたと誹謗したため、いたたまれず出奔したという。上泉秀綱が武者修行に出たのは山本勘助の死後の永禄7年(1564年)以後とされており、この話は剣豪伝説にありがちな創作である。

山本勘助は10年の間、中国、四国、九州、関東の諸国を遍歴して京流(または行流)兵法を会得して、城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めた。後に山本勘助武田信玄に仕えたとき、諸国の情勢として毛利元就や大内義隆の将才について語っている。

天文5年(1536年)、37歳になった山本勘助は駿河国主今川義元に仕官せんと欲して駿河国に入り、牢人家老庵原殿の屋敷に寄宿し、重臣朝比奈兵衛丞を通して仕官を願った。だが、今川義元は山本勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかった。山本勘助は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかった。今川の家中は小者一人も連れぬ貧しい牢人で、城を持ったこともなく、兵を率いたこともない山本勘助が兵法を極めたなぞ大言壮語の法螺であると謗った。兵法で2、3度手柄を立てたことがあったが、山本勘助が当時流行の新当流(塚原卜伝が創設)ではなく京流であることをもって認めようとはしなかった。山本勘助は仕官が叶わず牢人の身のまま9年にわたり駿河に留まり鬱鬱とした日々を過ごした。

武田家足軽大将

武田二十四将。下段左から2番目が山本勘助山本勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に城取り(築城術)に通じた牢人がいると若き甲斐国主武田晴信山本勘助を推挙した。天文12年(1543年)武田家は知行100貫で山本勘助を召抱えようと申し入れて来た。牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇であった。取り消されることを心配した庵原殿はまずは武田家から確約の朱印状をもらってから甲斐へ行ってはどうかと勧めるが、山本勘助はこれを断りあえて朱印状を受けずに甲府へ赴くことにした。武田晴信は入国にあたって牢人の山本勘助が侮られぬよう板垣に馬や槍それに小者を用意させた。山本勘助は躑躅ヶ崎館で武田晴信と対面する。武田晴信山本勘助の才を見抜き知行200貫とした。山本勘助は深く感服した。なお、『甲陽軍鑑』には駿河滞在は「九年」とあるが、駿河入国(1536年)と武田家仕官(1543年)の年月が7年しかなく、2年合わない。

武田晴信は城取り(築城術)や諸国の情勢について山本勘助と語り、その知識の深さに感心し、深く信頼するようになったが新参者の破格の待遇から妬みを受けて、家中の南部下野守が山本勘助を誹謗した。武田晴信はこれを改易して、ますます山本勘助を信頼した。南部下野守は各地を彷徨い餓死したという。

同年、武田晴信が信濃国へ侵攻すると山本勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明した。山本勘助は100貫を加増され知行300貫となった。

天文13年(1544年)武田晴信は信濃国諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、これを殺した。なお、史実では武田晴信の諏訪侵攻と頼重の自害は天文11年(1542年)である。

頼重には美貌の姫がいた。翌天文14年(1545年)武田晴信は姫を側室に迎えることを望むが、重臣たちは姫は武田家に恨みを抱いており危険であるとこぞって反対した。だが、山本勘助のみは姫を側室に迎えることを強く主張する。姫が武田晴信の子を生めば武田家と信濃の名門諏訪家との絆となるであろうという思慮からであった。武田晴信山本勘助の言を容れ姫を側室に迎える。姫は諏訪御料人と呼ばれるようになる。翌年、諏訪御料人は男子を生んだ。最後の武田家当主となる四郎勝頼である(勝頼の子の信勝が最後の当主になったという説もある)。

天文15年(1546年)武田晴信は信濃国小県郡の村上義清の戸石城を攻めた。戸石城の守りは固く武田勢は大損害を受けた。そこへ猛将村上義清が救援に駆けつけて激しく攻め立て、武田勢は総崩れとなり撤退。村上勢の追撃を受けて全軍崩壊の危機に陥った。山本勘助武田晴信に献策して50騎を率いて村上勢を陽動。この間に武田晴信は体勢を立て直し、武田勢は山本勘助の巧みな采配により反撃に出て、村上勢を打ち破った。武田家家中は「破軍建返し」と呼ばれる山本勘助の縦横無尽の活躍に「摩利支天」のようだと畏怖した。この功により山本勘助は加増され知行800貫の足軽大将となる。この功績により、武田家の家臣の誰もが山本勘助の軍略を認めるようになった。なお、史実では戸石城攻防戦は天文19年(1550年)である。

立身した山本勘助は暇を受けて駿河の庵原殿を訪ね、年来世話になった御礼言上をして、主君武田晴信を「名大将である」と褒め称えた。

武田晴信は軍略政略について下問し、山本勘助はこれに答えて様々な治世の献策をした。優れた城取り(築城術)で高遠城、小諸城を築き、山本勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。また、山本勘助の献策により有名な分国法「甲州法度之次第」が制定された。

武田晴信山本勘助は諸国の武将について語り、毛利元就、大内義隆、今川義元、上杉憲政、松平清康について評し、ことに義元に関しては討死を予見した。後年、義元は桶狭間の戦いで敗死している。

天文16年(1547年)武田晴信は上田原の戦いで村上義清と決戦。重臣板垣信方が戦死するなど苦戦するが、山本勘助の献策により勝利した。村上義清は越後国へ走り、上杉謙信に頼った。以後、謙信はしばしば北信濃の川中島へ侵攻して武田晴信と戦火を交えることとなる。なお、史実では上田原の戦いは天文17年(1548年)であり、戸石城攻防戦の前である。また、村上義清は上田原の戦いで勝利して一時反撃に出ており、越後国へ逃れたのは天文22年(1553年)である。

天文20年(1551年)武田晴信は出家して信玄を名乗る。山本勘助もこれにならって出家して法号を道鬼斎と名乗った。史実では武田晴信の出家は永禄2年(1559年)である。

天文22年(1553年)信玄の命により、謙信に備えるべく山本勘助は北信濃に海津城を築いた。城主となった高坂昌信は、山本勘助が縄張りしたこの城を武略の粋が極められていると語っている。

『真田三代記』によると、山本勘助は真田幸隆と懇意であり、また馬場信春に対して山本勘助が築城術を伝授している。

これらの『甲陽軍鑑』に書かれた山本勘助の活躍から、江戸時代には山本勘助は三国志の諸葛孔明のような「軍師」と呼ばれるようになる。なお、『甲陽軍鑑』では山本勘助を軍師とは表現していない。

川中島の戦い・山本勘助の死

第四次川中島の戦い永禄4年(1561年)謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かした。信玄も2万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入った。両軍は数日に及び対峙する。軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、信玄は慎重だった。信玄は山本勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案するようを命じる。山本勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策した。啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられた。信玄はこの策を容れて、高坂昌信、馬場信春率いる兵1万2000の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、自身は兵8000を率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。だが、軍略の天才である謙信はこの策を見抜いていた。夜明け、高坂勢は妻女山を攻めるがもぬけの殻。

夜明けの濃霧が晴れた八幡原で、信玄と山本勘助は驚くべき光景を目にした。いるはずのない上杉勢1万3000が彼らの眼前に展開していたのである。謙信は山本勘助の策を出し抜き、一切の物音を立てることを禁じて深夜に密に妻女山を下って千曲川を渡り八幡原に布陣していた。武田勢は上杉勢の動きに全く気がつかなかった。謙信は信玄を討ち取るべく車懸りの陣で武田勢に猛攻をかける。信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしくが、武田勢は押しまくられ、武田家の武将が相次いで討ち死にした。その中に山本勘助がいた。『甲陽軍鑑』は山本勘助の死について「典厩(武田信繁)殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人、山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死」とのみ信繁(信玄の弟)ら戦死者と列挙して簡単に記している。

江戸時代の軍記物『武田三代軍略』によれば、山本勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入。奮戦して13騎を倒すが、遂に討ち取られた。『甲信越戦録』では、死を決意した山本勘助は僅かな家来と敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、家来たちは次々に討ち死にし、それでも山本勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、上杉家の猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られている。享年69。

山本勘助の遺髪を納めた墓所(愛知県豊川市牛久保町)

開基者 真木宗成(念宗法印)山本勘助らの必死の防戦により信玄は謙信の猛攻を持ちこたえた。乱戦の最中に謙信はただ一騎で手薄になった信玄の本陣に斬り込みをかけた。馬上の謙信は床机に座った信玄に三太刀わたり斬りかかったが、信玄は軍配をもって辛うじてこれを凌いだ。ようやく別働隊の高坂勢が駆けつけ上杉勢の側面を衝く。不利を悟った謙信は兵を引き、戦国時代未曾有の激戦である川中島の戦いは終わった。この両雄の決戦を『甲陽軍鑑』は前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちとしている。

山本勘助の嫡子は天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死している。『甲斐国誌』によると山本勘助の嫡子の名は勘蔵信共とある。

実在を巡る議論

山本勘助を軍略と築城に長けた武将として描いた初出の史料は江戸時代初期の17世紀初頭に成立したと考えられる『甲陽軍鑑』であり、その後もそのイメージが江戸時代の軍談に引き継がれて、さまざまに脚色されて天才肌の「軍師山本勘助」像が形成された。江戸時代には『甲陽軍鑑』は軍学の聖典と尊重されて広く読まれ、山本勘助という人物の存在は史実として疑われていなかった。

明治になって近代的な実証主義歴史学が日本にも取り入れられ、『太平記』や『太閤記』といった古典的な軍記物語に対する史料批判が行われ、その史料性が否定されるようになった。明治24年(1891年)、東京帝国大学教授田中義成は論文『甲陽軍鑑考』を発表して、『甲陽軍鑑』の史料性を否定。『甲陽軍鑑』のみに登場する「軍師山本勘助」の実在を否定して、山本勘助は高坂昌信配下の身分の低い一兵卒がモデルであろうとした。『甲陽軍鑑』は軍学者小幡景憲が高坂弾正に仮託して書いた創作物で、田中は『武功雑記』の記述を根拠として山本勘助の子の関山派の僧侶の覚書を参考にして書かれたとして、この僧侶の覚書では顕彰の意味で父を誇大に活躍させており(この時代の家伝の類では通例である)一兵卒に過ぎない山本勘助が武田家の軍師とされてしまったと断じた。

実証主義歴史学の大家である田中義成の見解は権威あるものとされ、田中の高弟渡辺世祐などもこれを支持して、以後は『甲陽軍鑑』を歴史学の論文の史料として用いることが憚られるような風潮となる。活動はおろか名前自体がその他の史料での所見が無い山本勘助の活動もまた史実とは考えられなくなり、更に進んで架空の人物と考えられるようにさえなった。

昭和44年(1969年)、北海道釧路市在住のNHK大河ドラマ「天と地と」の視聴者がいた。先祖は米沢藩士であり、信濃国の国人の家系で戦国時代には武田家にも属していた。明治になって屯田兵として北海道へ移住しており、家には先祖伝来の古文書が残されていた。NHK大河ドラマ「天と地と」を観ていて家の古文書にも史料的な価値があるものがあるかもしれないと思い、戦国時代のものと思われる一通の書状を探し出して、鑑定に出したところ真物と確認された。その書状には「山本菅助」の名があった。『市川文書』と呼ばれるこの書状の発見によって、実在そのものが疑われていた山本勘助の存在が確認された。

『市川文書』は弘治3年(1557年)の第三次川中島の戦いの際に信濃国衆市川藤若に武田晴信が宛てた書状で、口上を述べる使者が山本菅助であった。この時代の使者は一兵卒という軽輩ではなく、主君の信頼の厚いある程度身分の高い武士が勤めていた。

それでも山本菅助は『甲陽軍鑑』に描かれるような軍師的な武将ではなく、伝令将校のような役割を果たす人物であった(とはいえ、それなりの力量と識見がなければ務まらない役割であることもまた事実であり、『甲陽軍鑑』の原著者が彼のこうした役割を承知の上でイメージを膨らませた可能性は十分に考えられる)。

甲陽軍鑑』に記された”山本勘助”と『市川文書』に残された”山本菅助(やまもとかんすけ)”とを直接結びつける記録は発見されていない。『甲陽軍鑑』の作者が実在の”山本菅助”をモデルにしているとの説も可能性の域を出ず、架空の人物を創造した可能性とともに、今後の検証が必要である。

作品

甲陽軍鑑』をもとに江戸時代前半から、武田信玄に仕えた名軍師というイメージで軍談や浄瑠璃などでたびたび題材にされ、そうしたなかで山本勘助に対するイメージがさらに膨らんでいった。また、山本勘助の家族、とりわけ母の越路(架空の人物)が劇化され、たびたび取り上げられている。以下に特に著名な二作を挙げる。

近松半二、三好松洛ら6人合作の浄瑠璃『本朝廿四孝』の三段目「筍掘り」

近松門左衛門作の浄瑠璃『信州川中島合戦』の三段目立端場「輝虎配膳」

越路は三婆と呼ばれる難役の一つに数えられている。

近現代にあっても彼を軍師として主役・脇役に取り上げた作品は多く、井上靖の歴史小説『風林火山』が特に著名である。この作品は昭和44年(1969年)には映画化(監督:稲垣浩)、平成4年(1992年の)12月には里見浩太朗主演で日本テレビ系列の「年末大型時代劇スペシャル」第8作として、また、平成18年(2006年)正月には北大路欣也主演でテレビ朝日系列にてテレビドラマ化がされたほか、いくたびも映像化、舞台化されている。さらに、井上靖生誕100年を記念して、平成19年(2007年)放送のNHK大河ドラマ風林火山の原作となった。

これ以外は横山光輝の漫画隻眼の竜がある。こちらは武田信玄に仕えること以外ほとんどが創作となっている。 ちなみにこれら作品共通して山本勘助が隻眼であるが、どちらの目を失明したかが不明なので、右目だったり左目だったりしている。

近年の主な作品の山本勘助

『風林火山』(井上靖)

武田晴信に仕官した山本勘助は諏訪頼重の暗殺を進言し、頼重は殺され諏訪家は武田家に攻められて滅ぼされた。高遠城に攻め入った山本勘助は、自害を頑なに拒む頼重の娘由布姫と出会い、その美しさと気高さに魅了された。仇討ちを誓う由布姫武田晴信由布姫を側室に望むが、重臣たちはこれに反対。山本勘助のみが側室に迎えるべきと強く主張した。山本勘助は武田家と諏訪家の絆ができること、そして由布姫の幸せを願っていた。やがて、由布姫は四郎勝頼を生む。

山本勘助由布姫への思慕の情を抱きながら各地で戦い続けるが、由布姫は若くして死去してしまう。悲しみに暮れる山本勘助にはやがて運命の川中島の戦いが迫っていた。

この作品では美しい由布姫に思慕の情を抱き、尽くそうとする山本勘助がストーリーの軸となる。なお、『甲陽軍鑑』はそのような筋立てではない。

風林火山』(2007年NHK大河ドラマ、原作:井上靖、脚本:大森寿美男、主演:内野聖陽

ストーリーの序盤はドラマオリジナルで山本勘助の青年時代が描かれる。

諸国遍歴の武者修行の旅をしている大林勘助は甲斐国に入り、合戦のどさくさに武田家の侍に襲われた農民の娘ミツを助ける。勘助とミツは愛し合うようになるが、兵法を極めた勘助は軍師として身を立てることを願い、流浪の旅を続けることに。

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